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【日テレ】4/10 日韓友好スペシャル放送【日テレ】

1 :corona:02/03/30 18:29 ID:ULkfsxGb
日本テレビ系列で、4月10日(水)午後9時より『日韓友好スペシャル(仮)』
が放送される。
以下、現在発売中の月刊テレビジョン5月号より。

日韓友好スペシャル!!(仮)
 ・日本の皇室から朝鮮王家へ!政略結婚で嫁いだ梨本宮方子の波瀾の人生
 ・朝鮮人の青年が日本の特攻兵に!命をなげうった理由とは
 ・新大久保駅の悲劇転落した日本人のために命を落とした韓国人留学生の素顔
 ・祖国は韓国!在日韓国人俳優が故郷へ!!

尚、放送日はナイター中継の為、最大60分繰り下げの可能性あり。
テレビ板にたてようか悩みましたが内容的にこちらの皆さんの方が
詳しいと思い、たてさせていただきました。ネット上のソースは結局
見つからなかった。



99 :日出づる処の名無し:02/04/10 16:53 ID:2jql+bxG
人物探訪:日韓の架け橋・李方子妃

日本皇族から、朝鮮王朝最後の皇太子妃 そして韓国障害児の母へ。

■1.毅然たる覚悟■

 大正5(1916)年8月3日朝、大磯の別邸で夏を過ごしていた
梨本宮方子(なしもとのみや・まさこ)妃は、いつものように
新聞を拡げると「あっ」と声をあげて、両手をわなわなと震わ
せた。

李王世子の御慶事−梨本宮方子女王とご婚約

 という大見出しとともに、まぎれもなく自分の袴姿の写真が
掲載されている。隣には、李王世子、すなわち大韓帝国皇太
子・垠(ウン)殿下の写真が並んでいる。

 東京に帰った方子妃は、父守正王から正式に婚約を告げられ、
次のようにきっぱりと答えた。

 よくわかりました。大変なお役だとは思いますが、ご両
親様のお考えのように努力してみます。

 母・伊都子妃は、わずか15歳の娘の毅然たる態度に、言葉
もなくただ涙された。この時から日韓の狭間で波乱の人生が始
まるのだが、方子妃はまさにこの毅然たる覚悟通りに、日韓の
架け橋としての役目を果たし続ける。

 2学期が始まると、学習院では「皇太子妃におなりになる。
でも朝鮮のお方がお相手ではね」と学友達はささやきあってい
た。そこに方子妃が髪を中心から分けて結う韓国式の髪型で、
昂然と胸を張って登校してきた。みなはその覚悟の見事さに感
心した。

■2.韓国併合■

 皇太子垠は明治40(1907)年、11歳にして日本に留学した。
この2年前に、日露戦争に勝利した日本は、大韓帝国を保護国
としていた。朝鮮半島の不安定が日清、日露両戦役を引き起こ
していただけに、英米両国はこの措置を歓迎した。

 大韓帝国側から見れば、垠を人質に取られた格好だったが、
わが国は朝野をあげて歓迎し、すべて日本皇太子と同等の扱い
をした。特に明治天皇、皇后は垠を可愛がられ、よく御所に召
されて、贈り物を与えられた。太子大師(皇太子の主任教師)
に任命されていた伊藤博文が、「垠のためにならないから」と
断っても、両陛下はやめられなかった。伊藤自身も孫のように
垠を慈しみ、安重根に暗殺された後、垠はよく「伊藤公が生き
ておられたら」と語っていた。

 明治42(1909)年7月6日、韓国併合が閣議決定された。ア
メリカ政府は「むしろ米国のためにこれを歓迎す」とし、イギ
リス、ロシア、ドイツ、フランス各国政府もこれを了承した。

 後の首相・原敬は「今日決行するの必要ありや否や疑はし」
と評し、小説家・有島武郎は「この日、朝鮮民族の心情やいか
んと涙する」と記している。

100 :日出づる処の名無し:02/04/10 16:54 ID:2jql+bxG
■3.旧朝鮮王妃としての責任■

 併合後も、李王家は皇族の一員として高い地位を与えられた。
敗戦時、総理大臣の年俸が1万円だった時に、李王家の皇族費
は120万円と皇室に次ぐ巨費である。方子妃の生家梨本宮家
などはわずか3万8千円に過ぎない。さらに本国朝鮮に150
万坪を越す土地や4千万円以上の預金を所有していた。

 垠の父、李大王は方子妃との婚儀を大変に喜んだという。方
子妃は皇族であり、そして何よりも当時皇太子だった昭和天皇
のお后候補の一人とされていた方である。「日本皇太子と同
等」という扱いはここにも及んでいた。

 また韓国の宮廷では、王妃の一族が実権をとるために、血で
血を洗う勢力争いが絶え間なく続いており、日本皇族の女王殿
下をいただけば宮廷も穏やかに治まるだろうと安堵されていた。

 大正9(1920)年4月28日、東京六本木・鳥居坂の李王邸で
結婚式が執り行われた。婚儀に反対する朝鮮人大学生が、ピス
トルと爆弾をもって李王邸潜入を企てたが、朝鮮人刑事が検挙
して事なきを得た。

 王冠をのせた瞬間、思わず身がひきしまり、同時に旧朝
鮮王妃としての責任が、重くのしかかってきたのを感じま
した。

 方子妃は自伝にこう述べている。

■4.王子晉の死■

 垠殿下と方子妃は本物の愛情を育てて行かれた。2年後、王
子晉(チン、ただし「しん」と呼ばれていた)が産まれ、一家
は初めて朝鮮に帰ることになった。生後8ヶ月の乳児を連れて
帰る事に、母伊都子妃は最後まで反対されたが、ぜひ晉殿下も
一緒にという朝鮮側の強い要望に押し切られてしまった。

 その心配も朝鮮側の熱烈な歓迎に吹き飛び、元気いっぱいの
晉はかわいい若宮様と女官達にも大変な人気であった。

 2週間にわたる数々の行事も終わって、いよいよ明日は
この地を去ると思えば、名残りが惜しまれてきて、なんと
はなしに寂しさをおぼえたのは、殿下のみならず、私にと
っても晉にとっても、この国、この地がふるさとであるこ
とを、心でも、肌でもたしかめることができたからでしょ
うか、、、

 しかし、悲劇は出発前夜、お別れの晩餐会の後にやってきた。
二人が宴から戻ると、侍従が半狂乱になって「若宮様のご容体
が!」と叫ぶ。無我夢中で駆けつけると、晉は青緑色のものを
吐き続けていた。そして3日後、激しい雷雨の中を晉はわずか
8ヶ月の生命を終えた。

 日本人の医師達は、急性消化不良と断定した。しかし、出発
の前の晩、細心の警戒が最後にゆるんだのを狙っていたように
起きただけに、方子妃はじめ多くの人は、毒殺に違いない、と
思った。

101 :日出づる処の名無し:02/04/10 16:55 ID:2jql+bxG
■5.幸福の日々■

 昭和6(1931)年12月29日、2度の流産を乗り越えて、男
子玖(ク、ただし普段は「きゅう」と呼ばれていた)誕生。垠
殿下は方子妃の手をとられ、「ごくろうだったね」とただひと
こと。方子妃はよろこびで涙ぐんだ。皇室典範は、男子がいな
いときは王家廃絶をうたっており、朝鮮王統の存立がかかって
いたからである。方子妃は次の歌を詠まれた。

つもりたるととせ(十年)のなやみ今日晴れて高き産声き
くぞ嬉しき

 必ずいつの日か、朝鮮王国の血を受け継いだこの子に、
しっかりと父祖の国の大地に立てる日を迎えさせねばなら
ない。

 との悲願を心の底に深く刻みつけた。

 昭和10(1935)年、垠殿下は宇都宮第14師団歩兵第59連
隊連隊長として赴任、方子妃も玖とともに宇都宮に住む。農家
の人達と気軽に話をしたり、スキーに夢中になったりと、しば
しの幸福の日々が続いた。

 昭和18(1943)年、第一航空軍司令官に任命される。垠殿下
は、部下には思いやり深く、上官にはよく尽くし、事にあたっ
て動ずることなく、王者の風格があった。幼年学校の同期生の
一人は「少なくともわれわれ軍人、殊に同期生にとっては、最
も親しい敬愛する宮様であって、人質とか異国人とかいった感
情は露ほどもなかったのが事実である」と語っている。立派な
日本軍人、理想的な日本皇族として、ふるまわれていた。

 また人材育成にも心を砕き、日本留学中の朝鮮人留学生のた
めの寮を作り、毎年10万円もの奨学金を下賜されていた。

■6.終戦後の臣籍降下■

 昭和20年8月、日本が敗戦を迎えると、占領軍司令部は各
皇族の特権の剥奪にかかった。宮内庁から支給されていた歳費
は停止され、高額の財産税が賦課された。李王家も、昭和天皇
が特に行く末を案じられたが、皇族の身分を奪われ、財産の大
半を財産税として取り上げられ、残った宅地などもペテン師に
奪われてしまった。

 方子妃は、これからは私が強くなって殿下はそっと静かに、
したいように暮らしていただこう、戦うのも私、守るのも私な
のだ、と決心した。

 昭和25(1950)年には、垠殿下はマッカーサーに招かれて来
日した大韓民国初代大統領・李承晩と会談をした。李王朝につ
ながる血統を自慢していた大統領は、国民の同情を集める垠殿
下にライバル意識を持ったのか、冷たく「帰国したいなら帰っ
てきなさい」と言い、殿下は落胆して帰国をあきらめた。

 昭和35(1960)年、李承晩は大統領選4選に成功したが、不
正選挙を怒る学生革命により失脚、翌年クーデターに成功した
朴正煕が、この3年前に脳血栓で倒れた垠殿下の容態を心配し、
生活費、療養費を韓国政府が保証するので、帰国されたいと連
絡してきた。


102 :日出づる処の名無し:02/04/10 16:55 ID:2jql+bxG
■7.反日感情渦巻く韓国へ■

 昭和38(1963)年11月22日、垠殿下と方子妃は大韓民国
に帰った。皇太子として11歳で故国を後にして実に56年が
経っていた。ベッドに寝たままの殿下は、そのまま病院車に乗
せられ、ソウルの聖母病院に直行した。ちぎれるように手をふ
る出迎えの人並みも、目には入らなかった。たとえ一歩でも半
歩でもいい、殿下の足で故国の土を踏ませたかった、と方子妃
は切ない思いをした。

 当時の韓国では、李承晩大統領の12年間におよぶ排日政策
の結果、反日感情が横溢していた。小学校から、中学、高校と
反日教育が施され、「電信柱が高いのも、ポストが赤いのも、
みんな日本が悪いとされる」と揶揄されるほどであった。

 方子妃が勝手が分からずに、使用人にまで丁寧に頭を下げる
と、たちまち非難の的になった。「チョッパリ女出て行け」な
どと罵倒されたこともあった。チョッパリとは豚足のことで、
足袋で草履を履いた足はブタのひづめと同じだというのである。

■8.障害児の教育を始める■

 そんな中で、方子妃は精神薄弱児の教育を始める。ポリオな
どで麻痺した子どもたちは、家族の恥として家の中に閉じこめ
られていた。方子妃はその子供らの自立能力を引き出し、育て
上げることを目指した。

 新聞に心身障害児募集の公告を出すと、たった一人8歳の精
神薄弱の女の子の応募があった。交通費程度で来てくれる優秀
な若い先生を見つけ、また場所も延世大学の一隅を間借りでき
た。机などは古道具屋を廻って調達した。あの家にポリオの子
供がいる、と聞くと方子妃は訪ねていく。おびえた眼で迎えら
れた事もたびたびだった。それでも1年して、聾唖や小児麻痺
の子どもが10人ほども集まった。

 政府から支給される生活費は、垠の入院費と生活費でほとん
ど消えてしまう。方子妃は資金を稼ぐために、趣味で作ってい
た七宝焼を売ることを始めた。足踏みバーナーで長時間火を起
こしていると、足が腫れ上がった。夏の暑い日には窯の熱気を
浴びて、汗だくだくになる。すでに60代半ばの方子妃には重
労働であった。

103 :日出づる処の名無し:02/04/10 16:56 ID:2jql+bxG
■9.韓国障害児の母■

 生徒数が多くなると、新しい土地を探し、建物を建て、「慈
恵学校」が正式に発足した。より多くの資金を集めるために方
子妃は王朝衣装ショーを始め、自らも宮中衣装を着て海外を廻
られた。これには、旧朝鮮王朝の権威と誇りを大事にしてもら
いたい、と非難が集中した。しかし、妃殿下はそんな非難をよ
そに80歳を過ぎても海外でのショーを続けられた。

 このような方子妃の努力で慈恵学校は形を整え、児童数15
0名、校地4千坪、教室や寄宿舎以外に、豚舎、鶏小屋、農場
まで備える規模に成長していった。

 方子妃が日本への募金旅行から帰った時の帰った時のことで
ある。風呂場をのぞくと、せっけんの泡をつけた子どもと、お
湯のしずくをしたたらせた子どもが抱きついてくる。方子妃は
よそゆきの洋服が泡だらけになるのもかまわず、子どもたちを
抱き寄せ、「ただいま」と一人一人の顔をのぞき込む。一緒に
訪れた在日韓国人の権炳裕は、この光景を見て胸がつまり、こ
の方の為ならどんな応援もしようと心に誓ったという。権はそ
の後の在日大韓民国婦人会中央本部会長である。

 平成元(1989)年、方子妃は87歳で逝去された。5月8日、
古式に則って千人の従者を伴った葬礼の行列が、旧朝鮮王朝王
宮から王家の墓までの2キロの道を進んだ。墓にはすでに19
年前に亡くなられた垠殿下が待っている。韓国からは姜英勲首
相、日本からは三笠宮同妃両殿下が参列され、多くの韓国国民
が見送った。[2]

 日本の皇族として生まれ、朝鮮王朝最後の皇太子妃となり、
さらに「韓国障害児の母」と数奇な運命を辿られた方子妃は、
「一人の女性として、妻として、私は決して不幸ではなかっ
た」と述べられている。日韓の架け橋になろうとの15歳の時
の決意のままに、その後の72年間を生き抜かれたのである。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog178.html

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